皿そば日記

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zoom RSS 御手洗紀行(大崎下島)

<<   作成日時 : 2010/08/04 12:08   >>

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 呉で入手したパンフレットに“とびしま海道”とあった。何だ大崎下島へは車で行けるのか。大崎下島にある御手洗(みたらい)へは船しか念頭になかった。予定変更だ。

 豊後水道から瀬戸内海中央の燧灘(ひうちなだ)に至るとき、四国の今治が大きく北へつきだして、本土の竹原あるいは呉との間が狭くなっている。その狭くなっている海の中央に大崎下島は浮かぶ。航海術が進み、瀬戸内を通る航路が陸地沿い(地乗り)から沖合(沖乗り)に変わった江戸時代、沖合航路上に位置する御手洗は風待ち潮待ちの良港として賑わうようになった。地乗り衰退によって鞆の浦が寂れて、ここ大崎下島御手洗が栄えていったようである。中継貿易地としても賑わう御手洗には、歓楽街までもできた。“御手洗を素通る船は、親子乗りかや金なしか”と謡われた。バブル期の雰囲気があったのかもしれない。

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 訪れたのは7月下旬に近い、天気のよい暑い日だった。呉から安芸灘大橋を通り、下穂刈島、上穂刈島、豊島と次々に渡り、そして大崎下島に入る。先に進むにつれ、信号もなく行き交う車もほとんどない。海面に近い道を快適に走ると御手洗につく。
 町に入り、マップをもらった。“見たらいい町、御手洗マップ”と洒落ている。住吉神社から路地に入っていくと、切り妻の二階建ての民家が並ぶ。家々の外装はみな焦げ茶で板目が美しい。普通に真面目に働いて家を造り維持していく。自分の故郷に似て懐かしさを感じる。時に古い洋館が見えるのもアクセントとなる。違和感がない。
 江戸時代の町並み常盤町とおりに出る。切り妻の二階建てが並ぶが、二階部分は白の漆喰が鮮やかである。家は妻入りで、格子戸と格子窓の上に家の幅のひさしがのびて、銀の瓦が渋く光る。折しも、ひとりの婦人が格子窓に小さなすだれをかけて一輪の花を飾っていた。聞くところによると、婦人会でとおりに面したところにそれぞれ花をあしらい、町を和やかにする活動をしているという。

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 カメラをぶら下げて歩いていくと、「よい写真を撮れましたか」と笑顔で声をかけてくれる。「町はすばらしいが、腕がありませんから」と応じる。勝手な想像だが、この町を誇りに思い、広く皆に知ってもらいたいと願っているように感じた。
 御手洗には、歴史の足跡がたくさん残されている。坂本龍馬も訪れている。薩摩の大久保、長州の木戸、芸州の某と四藩軍事同盟を密談したと想定される金子邸、それに七卿落の遺跡もある。町を歩きながら、古を想像するのも愉しい。

 辞去する際、「歴史の見える丘公園」へ行ったのかと問われる。2億円もかけて整備し、御手洗と瀬戸内が一望できる格好の場所だという。山に向かう。道をどう間違ったか、行けども行けどもそれらしき公園はない。どうも、みかん畑に迷い込んでしまったようである。さらに登る。公園はなかったが、絶景だ。御手洗はもとより、大長の町や平羅島、中ノ島、小島、岡村島が眼下に見える。遠くしまなみ海道の橋も見える。視界がきけば石鎚も見えるのではないか。 
 景色もさることながら、ふと見るとみかん畑が足下に広がる。大長みかんは絶品と聞くが、こんな急斜面でつくられているとは。人が立つのも困難なところに、みかんの木が麓から頂上まで植えられている。山に巻いたはちまきよろしく、作業用の道が幾重にも走る。このような苦労をして栽培しているのかと、頭が下がる。

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 自分の小さい頃、今ほど豊かではなかった。まだまだ自然や昔風の家々がたくさんあったような気がする。当時は何も気に止めないで、遊びに夢中だった。今、少し周りが見えるようになると、もう昔の景色が少なくなっていることに気付く。都会に住むとその思いは強い。聞いた科白だが、御手洗はそんな郷愁を感じる町だ。先ほどのマップに、“風まち、潮まち、港町”とある。もう一つ、“人まち”を加えてはどうだろう。自分の営みを振り返らせてくれる町が待っている。


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